医師・鈴木健司さん(順天堂大学医学部付属順天堂医院 呼吸器外科)が、肺がん手術のスペシャリストとして「情熱大陸」で紹介されました!
鈴木健司さんは、防衛医科大学を卒業し自衛隊病院での9年間の勤務義務(義務任官)を5年目で辞退し、転職しています。
医師・鈴木健司さんの決断に秘められた過去と、転職の日にあった「事件」とはいったい何だったのかをご紹介します!
受験の失敗と外科医への道
第一志望は京都大学
理学部不合格から浪人生活
鈴木健司さんは、大学受験の際に「医師になる」という気持ちはまったく無かったそうです。
当初第一志望の大学受験で選んだのは、『京都大学理学部』
高校3年生・18歳の時にずっとあこがれていた『京都大学理学部』1本で受験に臨んだのですが、剣道にのめりこんでいた学生生活のためか不合格という結果でした。
そのため翌年にもう一度挑戦すると、一浪することを決めます。
しかも予備校などに通わず、宅浪(自宅で独学)した経験を持っています。
そして宅浪で自分の学力を知るために受けに行った模擬試験会場で、たまたま隣にいた受験者が「防衛医大の受験料はタダらしい」と教えパンフレットを見たことがきっかけで、鈴木健司さんは「漫然と受験を希望」したそうです。
防衛医大を選んだ本当の理由
翌年、鈴木健司さんは3つの難関大学を受験し、すべて合格を果たします。
- 京都大学(ずっとあこがれていた大学)
- 早稲田大学(親せきの猛烈なすすめの大学)
- 防衛医科大学(力試しのために受けた大学)
『京都大学』は現役受験で1本に絞るほどのあこがれの大学で、卒業後の進路は研究者として大学院に進んだり大企業の研究を行う人がほとんどです。
鈴木健司さん自身も当時は、医師になることが夢だったわけではありません。
我が家は大して裕福ではなく、ましてや医師の家系でもありません。
むしろ漠然と、医者という仕事は「人様の体にメスを入れる」、まるで神の領域に入り込むような感覚があり、自分には無縁な世界だと思っていました。
Medical Note
また防衛医大に進んだのは「学費がタダ」という単純な理由ではありません。
鈴木健司さん自身の言葉をご紹介したいと思います。
まさか合格するとは思っていなかった防衛医大でしたが、「親に迷惑をかけることなく医者の勉強ができる」という点に心惹かれ、入学を決意します。
Medical Note
「金銭的な負担を親にかけたくない」
当時浪人した場合、特に難関校へ進むためには予備校に行く人がほとんどで宅浪と言うのも珍しかったようです。
鈴木健司さんは浪人時代も含め学費などの費用負担をかけずに自立しようと選んだ防衛医大が、本人の大変な努力と多くの出会いによって現在の「肺がん手術のスペシャリスト」という道を切り開いたのです。
外科医への道
防衛医科大学で医学を学び始めた鈴木健司さんは、医療のある概念を知ることになります。
- 内科は治せない病気を治す
- 外科は目の前で困っている人を助ける
この概念を知った時、鈴木健司さんは迷うことなく外科医になることを決めました。
そして防衛医大で学んでいる間は、さまざまな診療科をまわり勉強を重ねていきます。
その中で出会った呼吸器外科の尾形利郎(おがた・としろう)教授が、鈴木健司さんは感銘を受けたといいます。
尾形先生は早朝や夜遅く、後進の医師たちを誰も引き連れず1人で回診に出向き、必ず自分の目で患者さんをみていました。
その真摯な姿に、教室員はみな感銘を受けました。
同時に、尾形先生は診療の合間を縫って近くの歌舞伎座へ繰り出すといった遊び心も持ち合わせており、私はそのカリスマ性に心揺さぶられたものです。
Medical Note
この尾形利郎教授から指導を受け、鈴木健司さんは呼吸器外科に進むことを決意します。
尾形利郎教授から教えられた「患者さんは、とにかく自分の目で確認する」という考え方は、現在も医師・鈴木健司さんの根底に生き続けているのです。
自衛隊退任と事件
辞めた本当の理由は何?
鈴木健司さんは防衛医大で学んだことは「厳しくも実りある時間」と振り返っています。
- 1991年:臨床研修医となり自衛隊横須賀病院に勤務
- 1993年:US Navy(アメリカ海軍)で潜水艦学習得、ダイバー訓練
これは通常の医科大学や医学部では、なかなか経験できないものだと思います。
充実を感じていた矢先、自衛隊病院勤務の任官が残り4年を迎えた時に鈴木健司さんは医師として大きな焦りを感じ始めます。
自衛隊の病院では、基本的には健康な自衛隊員を対象とした診療を行うため、実際の患者さんを診察するという機会がほとんどないという事実がありました。
「このままではきちんとした外科医になれない」
私は一念発起し、目の前で困っている人を助ける外科医になるという当初の夢を叶えるために防衛医大の任官を辞退しました。
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「外科医として一人前になる」ために試行錯誤し、最終的に進もうと決意した場所は、国立がん研究センターで勤務することでした。
面接の日の事件
鈴木健司さんは国立がん研究センターの部長(当時)をつとめていた医師・土屋了介さんに会うために、横須賀を出発し築地駅へ降り立ちました。
その際目の前に広がっていたのは、ものすごい渋滞と圧倒されるような異様な人々の雰囲気で、何が起きているのかも分からないままに、ようやく国立がん研究センターにたどりつきます。
そこで視たテレビのテロップに「築地駅でテロ発生の模様」という文字とともに、現場のようすが実況されていました。
この日は1995年3月21日、「地下鉄サリン事件」当日だったのです。
医師としての強い使命から、鈴木健司さんは思わず無給で良いからここで働きたいと訴えますが、この時は土屋了介医師の配慮のもとそのまま勤務することは許されませんでした。
半年後の執刀
その後医師・鈴木健司さんは、1995年6月に国立がん研究センター東病院に入局します。
その時まで手術の経験がほとんどなかったという状況でした。
その遅れを取り戻すために鈴木健司さんがしたことは、病院で寝泊まりして24時間を過ごすという生活でした。
それは「ひたすら人の手術を見て学ぶ」ということでした。
ようやく自分で手術をすることができたのは、国立がん研究センター東病院入局後半年、1995年12月です。
1999年に国立がん研究センター東病院から中央病院に移った鈴木健司さんは、土屋了介医師のもとで3年、数多くの難しい症例に立ち会うことになります。
これらの経験が現在の「呼吸器外科のスペシャリスト」と呼ばれる、医師・鈴木健司さんの礎(いしずえ)となっているのです。
まとめ
「情熱大陸」の番組内でクローズアップされた、呼吸器外科の医師・鈴木健司さん。
2017年から手術支援ロボット「ダビンチ」も導入し、頼ってくる重症の患者さんの難しい手術を年間700件以上行っています。
鈴木健司さんは決して自身がいわゆる「ゴッドハンド」だとは考えていないことは、このように語ってる言葉からも分かります。
恐怖政治は長続きしません。
「One for all, All for one(1人がみんなのために、みんなが1人のために)」こそ、よい組織の方針ではないでしょうか。
誰かのためにやったことは、必ず自分に返ってきます。
Medical Note
外科医になることを決めた時、鈴木健司さんは「外科は目の前で困っている人を助ける」という信念を持った医師です。
この強い信念を貫き続け、多くの命が救われてきました。
1995年3月15日を「運命の日」と呼んでいる医師・鈴木健司さん。
偶然にも面接の日にあの凄惨な事件の当日で、事件の起きた場所に居合わせたという、この時の経験も深く心に刻まれて日々研鑽しているのだと思います。
今も増え続けているという肺がんをはじめとする多くの疾患・病気と闘い続ける患者さんに、寄り添い続けている医師・鈴木健司さんについてご紹介しました。
それでは、最後までご覧いただきありがとうございました!
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